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元自衛官の憂い The third

軍事的色眼鏡で見る世界 軍人は究極の合理主義者です。 合理主義者であるが上に、「人道」を忘れたり、犠牲にしたりすることがあります。 軍人は行動は計画的、本心を隠す、混雑する場所を避ける、計画的な金銭感覚、意志が固い、職場での信頼を得やすい、そして最後に家庭では扱いがぞんざいにされるです。 家庭ではぞんざいに扱われながらも、軍事的色眼鏡で見てしまう元自衛官の雑感などを書いていきます。
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  • :07/23/04:20

08071155 原爆投下は勝者の奢りだった

1945年8月6日午前8時15分、人類史上初の核攻撃が行われました。いわゆる〝戦略核攻撃〟です。
標的となったのは「民間人」であり「都市部」でした。
私は当時の日本政府、日本人がなぜ、非人道的兵器により非戦闘員が大量虐殺(ジェノサイド)だと、アメリカを非難しなかったのか納得できずにいます。
そして、こともあろうに反米感情ではなく、放射能・放射線をただ怖がるだけで終わらせてしまったのか。正しく学ぶ気がなぜなかったのか残念でなりません。

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アメリカ政府の核使用の公式見解は、「日本本土での直接戦闘(日本側:本土決戦)」を回避し、早期に日本を降伏させるため」としています。
 
しかし、実際には日本の降伏は時間の問題でした。当時の軍・政府の中に自らの責任の下で〝降伏〟を口にし実行できる人間が誰一人としていなかっただけなのです。
 
それだけではありません。近年、明らかになっていますが、当時、中立国に駐在する武官たちから連合国側の動向が報告されていたにもかかわらず、それらを無視し、軍・政府高官らは口をつぐんでいたのです。国家が滅亡するかという瀬戸際に立たされていたにもかかわらずです。
 
原爆の開発まで遡ると、その端緒となったのはドイツで核分裂が発見されたことに始まります。
 
アメリカが原爆開発に着手したのは、アインシュタインから当時のルーズベルト大統領に宛てた手紙がきっかけとなったと、歴史では学びますが、この手紙はハンガリー出身の物理学者レオ・シラードがアインシュタインに手紙を書くように勧めたからでした。
 
ここで注目しておきたいのは、アインシュタインもシラードも「ユダヤ人」であったということです。
 
ルーズベルトは、この手紙で原爆開発に進むことはありませんでした。
 
当時の理論では、原爆は大量のウランが必要であり、爆弾ができても大重量となるため航空機では運べず、船だけが唯一の運搬手段となるため、ルーズベルトは原爆は非現実的との判断をしていたのです。
 
しかし、1940年、原爆の小型化が可能となる理論から原爆が実用化されると確信した人物がいました。この人物こそ、原爆の実戦使用、日本への投下まで深く関わっていきます。
 
原爆の小型化理論を発見したのは、イギリスに亡命していたルドルフ・パイエルスでした。パイエルスもまたユダヤ人でした。
 
チャーチルは原爆開発に動き出し、50名ほどの科学者が集めら「チューブアロイズ」という極秘機関を立ち上げます。集められた科学者のほとんどがユダヤ人でした。
 
チャーチルと科学者たちは、ヒトラーが原爆を手にしたらという恐怖感が原動力となっていました。ヒトラーが原爆を手にすれば、容赦なく使うとみられ、それを阻止するためには、同じく原爆を持つべきだという、後に唱えられる「相互確証破壊論」によるものでしt。
 
1941年6月、チャーチルは極秘に渡米し原爆共同開発のための秘密会談が行われました。
 
これは、チャーチルが原爆開発のために工場建設を模索しましたが、当時のイギリスはドイツによる空爆下にあり、イギリス国内に工場建設を断念せざるを得なかったからです。
 
アメリカに目を付けたのは、空爆されていないだけでなく莫大な資金力をあてにしてのことでした。
 
同年7月、ルーズベルトに原爆開発技術の資料が届けられましたが、実際にアメリカの原爆開発がスタートしたのは10月になってからでした。
 
ルーズベルトは1935年に成立した中立法などによる孤立主義、アメリカ合衆国のヨーロッパ大陸への非介入主義、選挙運動での非戦などの公約などから戦争には直接関わらないでいましたが、武器貸与をイギリス、ソ連、中国、フランスなど連合国側に行っていました。
 
ルーズベルトは、原爆開発を進める大義名分が無かったのです。
 
しかし、1941年12月8日、日本がアメリカに対し宣戦布告しアメリカは第二次世界大戦に参戦します。真珠湾攻撃の報せを聞いたチャーチルは、安堵したと語るほどでした。
 
戦争に直接関わるようになったアメリカですが、核開発技術を独占しようとします。
 
それは、原爆の小型化(プルトニウム原爆)により、原爆がより実用的な大きさに変えられることがわかったためでした。
 
これに気がついたイギリスのチャーチルは、イギリス独自で原爆開発をルーズベルトの特使に告げました。チャーチルはカナダに工場を建設し、パイエルスをカナダのモントリオール大学で実験用原子炉建設に着手させました。
 
現実的には戦争によりイギリス経済は破綻寸前で、イギリス単独での原爆開発は不可能でした。しかし、チャーチルの動きをルーズベルトはイギリスを追い詰めてしまい、同盟関係に影響を及ぼすと懸念し、原爆開発情報の共有を決めました。
 
一方、ドイツでは1943年2月スターリングラード攻防戦で敗北を喫したヒトラーは、新兵器の開発を急がせ、原爆に興味を無くしてしまいます。
 
そして、スターリングラードで勝利したソ連は、防勢から攻勢に転じ原爆開発に乗り出します。ソ連は1940年頃から、原爆に関する情報を詳細に把握していました。スターリンは、チャーチルが原爆を手にしたら、ソ連に対し戦争を仕掛けてくると考えていたためです。
 
プルトニウムが原爆に使えるとはわかったものの、プルトニウムを核分裂させるためには、新たな技術が必要となり、その技術が確立されないと実用化は難しいものとなることがわかります。
 
これを解決したのが、爆縮レンズの開発です。詳述は避けますが、これを開発したのがイギリスの研究者クラウス・フックスとジェームス・タックでした。
 
このフックスこそ、ソ連に原爆技術を渡していた人物です。フックスの情報は詳細で、フックスの情報だけでソ連は原爆開発が可能だったのです。
 
ルーズベルトもチャーチルも、ソ連に原爆技術が漏れているとはまったく気がついていませんでした。後にフックスがスパイであることを告白し、ソ連に情報が漏れていたことを知ることになります。
 
1944年、ドイツの敗色が濃厚になると、チャーチルは次の敵は共産主義・ソ連であると認識し、原爆開発を加速させようと考えます。しかし、ルーズベルトは大国であるソ連との対立は世界を混乱させると考えており、イギリスの対ソ強行とアメリカの対ソ協調という違いが出てきます。
 
ルーズベルトはニールス・ボーアの「核の国際管理」を前面に打ち出します。
 
アメリカ・イギリス・ソ連による核爆弾情報を共有し、国際組織により核爆弾技術と資源を管理し、核爆弾開発競争を無くすとというものでした。
 
非常に画期的なもので、これが実行されていれば現在のような核危機は回避できた可能性があります。
 
1944年5月、ボーアは「核の国際管理」を説明するためイギリスへと渡りチャーチルと会談します。
 
ボーアは会談前、ソ連大使館職員の接触を受け「ソ連の原爆開発へ協力」を求められたとチャーチルに報告します。
 
これを聞いたチャーチルは激怒し、ボーアをソ連のスパイと決めつけ「核の国際管理」をチャーチルは拒絶します。
 
アメリカ・イギリス間で新たな「ハイドパーク協定」が結ばれます。
・日本への原爆使用
・将来の核管理
これらが決められました。
 
チャーチルは日本への制裁をルーズベルト以上に強く求めていました。これは、ナチス・ドイツ率いるヒトラーに対する姿勢とは異質のものでした。
 
日本は大英帝国の植民地を奪い、植民地支配の顔であった戦艦・巡洋艦をマレー沖海戦で失い、大英帝国の顔に泥を塗ったのが日本であったからです。
 
1945年2月、ヤルタ会談が行われ、ソ連と密約が交わされます。
 
これは、原爆がまだ実用段階ではなく、ソ連を対日参戦させ、北方からの圧力で対日戦早期終結が目的でした。
 
スターリンは対日参戦の代償として、南樺太・千島列島の日本領をソ連に割譲することで合意します。ルーズベルトもチャーチルも、原爆開発情報漏洩だけでなく、スターリンの強欲さに気がついていなかったのです。
 
余談ですが、ソ連の参戦で満州・樺太でのソ連兵の婦女子への暴行、略奪が後に伝えられますが、これはスターリンが兵士を鼓舞するため暴行・略奪を推奨していたからです。当時の写真で兵士が日本人から奪った日本製腕時計を5〜6個腕にしていた姿を見ましたが、中世前の戦争のように、勝者は敗者の全てを奪い去ることが当然であった時代そのままだったのがソ連だったのです。
 
1945年4月、ヤルタ会談から戻ったルーズベルトが急死してしまい事態は変化します。
 
ルーズベルトの後任は副大統領であったトルーマンでしたが、トルーマンはチャーチルと同じ反共主義者だったためです。トルーマン・チャーチルは共にスターリンを封じ込めるべく協同します。
 
都市部、民間人への原爆使用が決められたのもこうしたアメリカ・イギリスの協調があったためでしょう。「兵器(原爆)を使用する際は、これを劇的なものにし、その重要性を国際的(ソ連)に認識させる」とアメリカで決められます。原爆使用の目的が明確に示されたのです。
 
チャーチルもソ連に対する警告的な意味で、「被害が大きいほど好都合だ」と語っています。
 
原爆を手にしたアメリカ・イギリスを、ソ連が怖がり行動を抑制するだろうとの判断がありました。
 
近年になって話題になりましたが、「マッハ・ステム」と呼ばれる爆風の効果を最大限に出すため、イギリスのウィリアム・ペニーが原爆の起爆高度を算出します。
 
明らかに原爆使用は対ソ用の「ショー」だったのです。ソ連が原爆についての知識が無ければという大前提がありますが…。
 
不可思議なのは、ソ連はスパイ網で原爆情報を入手している可能性があるのを、ルーズベルトもチャーチルも無視していたことです。そうした事実を無視して、なぜ原爆を都市部で使用したのか。
 
スターリンは原爆が実用化されれば、日本領土を入手できないと、対日参戦準備を急がせます。一方のトルーマンとチャーチルは、ソ連参戦前に原爆を使い日本を降伏させられれば、スターリンに日本領土を渡さずに済むと原爆即時使用を認めます
 
1945年7月15日、アメリカ、イギリス、ソ連首脳のポツダム会談が行われました。名目は第二次世界大戦の戦後処理が話し合われたとされていますが、反共のアメリカ・イギリス対領土的野心を燃やすソ連との対立でした。
 
連合国首脳は対日戦を外交的な交渉で終戦を迎える気などまったく持ち合わせていませんでした。
 
7月16日、プルトニウム型原爆が想定を上回る威力であるとトルーマンに報告されます。
 
原爆はイギリスの協力が無ければ、実用化は数年遅れていたといわれます。
 
そして、開発には多くのユダヤ人科学者が関わっていたこと。
 
チャーチルは日本への原爆使用を強く求めていたことなどを考えると、チャーチルの存在無くして原爆開発・実戦使用は無かったのではないか。チャーチルの真の姿を我々日本人は知るべきでしょう。
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