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元自衛官の憂い The third

軍事的色眼鏡で見る世界 軍人は究極の合理主義者です。 合理主義者であるが上に、「人道」を忘れたり、犠牲にしたりすることがあります。 軍人は行動は計画的、本心を隠す、混雑する場所を避ける、計画的な金銭感覚、意志が固い、職場での信頼を得やすい、そして最後に家庭では扱いがぞんざいにされるです。 家庭ではぞんざいに扱われながらも、軍事的色眼鏡で見てしまう元自衛官の雑感などを書いていきます。
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  • :07/28/13:02

08121249 日本航空123便墜落事故

いまだに都市伝説が残される123便墜落事故です。犠牲になったのが520名。大きな犠牲が出たため、都市伝説が残されているのかしれません。

都市伝説に近い事故状況を調べた素人さんの本を購入し読みましたが、あまりにも稚拙な内容で買ったことを後悔しました。


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当時、航空自衛隊で災害派遣に関わった元航空自衛官のお話が聴けましたので、それをまとめてご紹介します。

当時、何かと話題が出れば自衛隊は批判の的でした。東日本大震災後の自衛隊への評価、明確な脅威の顕在化で自衛隊の存在がクローズアップされていますが、当時は冷戦状態で表面上は平和が保たれている状況で、自衛官に求められていたのは国民(朝日新聞)から指摘を受けないよう努めることでした。

事故が起きた812日はお盆休みに入っており、当時、所属していた部署は24時間体制で仕事をしているため、盆休み前・盆休み中・盆休み明け後と3つのパターンに分けて休みを取り、休暇による欠員をできるだけ減らすようにしていました。盆休み中に休暇を取れるのは妻帯者が最優先でした。事故発生当日、私は夜勤で食事から戻った直後の1830分頃だと記憶しています。

峯岡山のレーダー・サイトから民間機の異常を確認したことが報告されました。これが、123便が発信した「スクォーク7700」を受信したものと思われます。7700」は緊急事態を告げるものです。

刻々と情報が伝えられ、緊急事態を宣したのは日本航空のジャンボジェットであることに戦慄しました。どれほどの犠牲が出るか、地上とのクラッシュとなった場合、甚大な被害が出ることが予想されたからです。

非常呼集、災害派遣準備と次々と上級部隊等から指示が出されました。非常呼集により休暇中の隊員の呼び戻しと、非番の隊員の配置などを手配しましたやがてこの事故に2ヶ月にわたり関わることになるとは当時は想像もできませんでした。

災害派遣準備などが急がれましたが、墜落地点の確認ができませんでした。現場を確認した救難隊のヘリが地上から現場に向かっていた陸自偵察隊や警察官、消防員、消防団等の誘導を試みましたが失敗しています。

これは、位置確認のための戦術航法装置(TACAN)を使って確認されたものですが、現場と入間基地、横田基地、浜松基地などからの位置(方位と距離)を測定し、地図上で三点公会法で特定するものですが、TACANは少なくとも1マイル(約1,600m)の誤差が出るため、何度も確認されますが、測定するたびに数値が変わってしまいます。今はGPSで十数m~数mの誤差ですが、当時はこれが限界でした。

救難ヘリが地上から進入を誘導しようとしましたが、自分の正確な位置すら把握できないわけですから、パイロットは推測で誘導することになり、位置特定は困難だったのです。

さらに位置が特定されても、夜間のヘリによる救助は、周辺状況確認できないため警察・消防・自衛隊ともにヘリでの救助活動は翌早朝からとされました。

「暗視装置が自衛隊にはなかったから」といった説明も救助活動ができない理由として挙げられることもありますが、暗視装置がなかったわけではないのです。当時、移動する目標を暗視装置を使い確認できるほどの技術はありませんでした。狙撃用に小銃などに付けられるものがありましたが、航空機で使用できるほどの高い性能のものはなかったのです。

現場を熟知したパイロットはまったくいません。どこになにがあるか、送電線、当時は木材を伐採しそれを運搬するためのワイヤーなどが張られていることもあり、翌早朝からのヘリを使った救助が妥当な選択ったのです。

事故当夜、防衛庁で会見が開かれましたが、記者からの質問は詰問調で「事故現場特定の遅れの理由」と「救難救助にヘリを投入しない理由」の説明が求められました。

確か、会見で説明したのが陸幕防衛部長で、空自の範疇にあることまで説明を求められたので大変だったと思います。しかし、そのような会見を気にする余裕など、当時の私にはありませんでした。

メディアの記者にとっては、当時は社会悪の自衛隊が救助に向かわないことは腹立たしい限りだったと思います。しかし、二次災害を考えると早計に出ていくことはできませんでした。

まったくヘリを出さなかったわけではありません。救難ヘリが現場上空に向かい、降下員を降ろすポイントを探しましたが見つからなかったのです。このヘリは位置情報を報告していますが、情報が錯綜しており、何が何だかわからない状態になっていました。

このヘリの位置情報がもっとも適格だったのですが、警察、消防、運輸省などから様々な位置情報がもたらされていたためです。結果的に救難ヘリからの位置情報が最も正確だったと知るのは、事故後のことでした。

TACANの誤差を考えると、空自(自衛隊)/防衛庁として強く発言できなかったのだと思います。継子扱いされている組織ですから、萎縮してしまうこともあり、なおさら強く発言できなかったのです。

いまだに当時のことを強く後悔する元自衛官がいます

当時、様々な事情が絡み合って初動が遅れ、それが指摘されていることをわかっていただければと思います。   以上

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