元自衛官の憂い The third
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04031102 | 科学者=哲学者のニッポン |
当ブログをお読みいただくのはインターネットを使っていらっしゃるわけですが、インターネットもパソコンも集積回路(IC)も光ファイバーケーブルも軍事技術から転用されたものです。スマートホンの前の携帯電話もまた軍事用無線機の技術を応用して携帯電話が生まれました。
日本学術会議が「軍事研究はしない」と強く訴えていますが、軍事技術が民間に転用されて発達してきた事実を無視しているようで納得できないものがあります。偉い先生方、学会などで航空機を利用されることもあると思いますが、飛行機が軍用にあてられるようになり飛躍的に発展したのを、機内で過ごす短くない時間でよく噛みしめて欲しいものです。
日本はとかく国民の生命財産を守るという意識がねじれた発想になっています。国を守るという言葉を使えば、政治家や果ては天皇陛下まで持ち出す始末。国家とは領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して政治機構を備えるものとされています。つまり、国を守る=国民を守るということなのです。
国を守るべき組織が軍人の一通の書簡に始まったわけですから、様々な問題が出てくるのは当然のことです。そこから神学論のような話になってしまい、自衛力なのか戦力なのか、境界線を引こうとすることがそもそもの誤りです。「矛盾」そのものです。
楚の国に矛と盾を売り歩く商人が、矛を売るときは「この矛はとても鋭いので、どんな堅い盾でも突き通す」と売り文句を語り、盾を売るときは「この盾はとても堅いので、どんな鋭い矛でも突き通せない」と売り文句を語りました。それを聞いた客の一人が、「それでは、その矛でその盾を突いたら、どうなるんだ?」と聞かれ商人は困ってしまったというものです。
攻撃兵器が進歩すればそれに対抗するための防御兵器は、より強力なものになっていきます。これはごく自然のことなのですが、どこかで歯止めをかけない限り軍拡競争という渦の中に飲み込まれてしまいます。
自衛隊の「自衛」という言葉が、強力なものではなく、曖昧な言葉であるためにこうした結果になるのだと思われます。これは洋の東西を問わず、アメリカでの銃を持つ権利が認められているのは、こうした曖昧なものから生まれたためでしょう。
日本では防衛論議が自衛隊が何らかの最新兵器を導入しようとした場合、マスコミが先頭に立ち、国会で論じられるようになります。その論議は、新たな軍備に疑問を投げかけ、憲法の理念まで及びます。政府/防衛省/自衛隊は、問題とされる兵器が日本に必要であること専門的な言葉を並べて反論することを繰り返してきました。
たとえば、いま現在、中国との領土的脅威と北朝鮮の核・ミサイル脅威から、防衛予算の枠はかなり緩くなっています。そこに漬け込み、海自はフネを造り続けています。
専門的な政府/防衛省/自衛隊の専門的反論は、軍事オタクや日の丸新聞社が歓迎し、納得させなければならない一般市民を煙に巻くだけです。
感情論革新系と技術論防衛当局の論争は、自然と水掛け論となり一般市民はさらにわけがわからなくなります。
権威ある学者先生の集まりが、「軍事研究はしない」と言えば、これに疑問を呈する一般市民などいるはずがありません。疑問を呈するのは、ただの軍事オタクか日の丸新聞社くらいのものとなります。
言葉としては、「デュアルユース」「スピンオン」「スピンオフ」などがありますが、説明すると面倒になりわかりにくくなるのでここでは避けます。
しかし、現在の我々の生活の中にはデジカメ、腕時計、ティッシュペーパー、缶詰、電子レンジ、テレビゲーム、カーディガン、トレンチコート、GPSなど軍事技術から民間技術に転用され発展してきものが数多く存在します。
学者先生方の主張も理解できないわけではありませんが、より現実的な論争をすべきであり、より実効的な論争にすべきなのですが、日本の平和主義は盲目的な宗教観のようなもので現実に即していないという悲しむべき現実があります。
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