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元自衛官の憂い The third

軍事的色眼鏡で見る世界 軍人は究極の合理主義者です。 合理主義者であるが上に、「人道」を忘れたり、犠牲にしたりすることがあります。 軍人は行動は計画的、本心を隠す、混雑する場所を避ける、計画的な金銭感覚、意志が固い、職場での信頼を得やすい、そして最後に家庭では扱いがぞんざいにされるです。 家庭ではぞんざいに扱われながらも、軍事的色眼鏡で見てしまう元自衛官の雑感などを書いていきます。
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  • :07/26/09:32

04122007 ペリリュー島の戦い

昭和191944)年915日から同年1125日にかけて南北約9キロ、東西約3キロの小さな島ペリリュー島(現パラオ共和国)で、米第1海兵師団(師団長ウィリアム・リュパータス海兵少将)と日本軍守備隊(守備隊長中川州男大佐)の戦闘が行われました。

天皇皇后両陛下が慰霊にお出かけになられた場所です。


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 歴史は全てを漏れなく未来へ伝えることはできません。歴史書の中では、執筆者の持つデータ、思い込みや先入観など、筆者の力量などが影響するため一つの事象でも様々な解釈ができるものとなったり、事実がゆがめられ偏重した内容になってしまうこともあり得ます。

 作家の陳舜臣先生は「歴史は勝者によって書かれる」と述べており、正史では勝者が有利な記述が行われる傾向にあり、敗者の歴史は秘匿されてしまい、正史でも勝者の不利なものは隠蔽されてしまうというものです。

 “ペリリュー島の戦い”こそ、米国によって隠蔽された真実がペリリュー島にはあると思います。このペリリュー島の戦いこそ、米国史上最悪の犠牲を払った戦いでした。そして、ペリリュー島の戦いこそ「狂気の戦場」でした。

 ペリリューには米海兵隊が太平洋戦線で使用するために、火炎放射器を搭載した戦車・装甲車両を投入し壕に立てこもる日本軍に容赦なく浴びせかけました。しかし、壕内に立てこる日本軍守備隊は狙撃で米兵を各個に攻撃し続け、苛酷な状況下で錯乱状態に陥る米兵たちも少なからず存在していたそうです。

 当時の米軍の従軍カメラマンは、「生き残れるかどうかは運だけ」「あの戦場(ペリリュー島)のことは家族にさえ話せない」「狂気が狂気を呼ぶ戦場」と語っています。

 あまりの苛酷さからペリリュー島の戦いは歴史の中に埋没させられたとの解釈もできますが、実際には米海兵隊の太平洋戦線で唯一の『敗北』であり、米海兵隊の存在意義さえ問われる戦いであったからこそ歴史の中に埋没させたと私は見ています。

 パラオ諸島は第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、大正111922)年南洋庁がコロール島に設置され内南洋の行政の中心地となっていました。日本人の多くが移住し、パラオに米食、野菜、サトウキビ、パイナップルの栽培を定着させ、マグロの缶詰、鰹節工場などを作り雇用を創出しました。道路舗装、島々に橋をかけ、定期船で結び、電気、電話も敷設しました。

 国際連盟規約により委任統治領の軍事根拠地化は禁止されていました。

 パラオ本島に民生用の小規模な飛行場があるだけで、国際連盟脱退後にパラオ諸島の軍事基地化が急がれました。

 

 米国首脳部は、海軍(チェスター・ニミッツ提督)は「マリアナ諸島攻略後、フィリピン、台湾と攻略し台湾を拠点として海上封鎖と米陸軍航空軍による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む計画を持っていました。一方、陸軍(ダグラス・マッカーサー大将)は「モルッカ諸島のモロタイ島からフィリピンのミンダナオ、レイテを経由して日本本土侵攻」を計画していました。そこに、アーネスト・キング海軍作戦部長が、「南方資源地帯と日本本土を結ぶシーレーンを遮断するためフィリピンは迂回して台湾に上陸し、中国大陸沿岸部の到達を目指し最終的に日本本土を攻略する」と主張しはじめ日本攻略戦が混乱しました。

 海兵隊対陸軍の衝突という図式化されてしまいました。

 事態はさらに複雑化します。サイパン島の戦いで上陸部隊の指揮官であった米海兵隊ホーランド・スミス中将が、米陸軍第27歩兵師団長ラルフ・スミス少将を「攻撃精神・指導力の不足」をt理由に解任し、陸海軍の混乱は収拾がつかない状態となりました。

 ニミッツはマッカーサーと張り合い、「ミンダナオ島から800キロしか離れていないパラオから日本軍が、米軍のフィリピン攻略部隊に航空攻撃を仕掛けてくる懸念がある」「フィリピン侵攻への航空作戦の航空拠点となる前進基地を確保する」という理由からパラオ諸島攻略に乗り出しました。

 米海兵隊の面子をかけペリリュー島攻略に乗り出しました。上陸部隊に選ばれたのは、ガダルカナル島の戦いで米軍最強といわれた第1海兵師団が担当することになりました。

 米軍は8月下旬からニューギニア北西部から陸軍爆撃機、96日から海軍艦載機による爆撃、912日からは戦艦・重巡・軽巡・駆逐艦からなる艦隊による艦砲射撃により島内のジャングルを焼き払いました。

 上陸当日の915日午前5時半、島の南西部に艦砲射撃が集中。8時前の艦載機による爆撃に替わりました。日本側の砲撃を妨害するため発煙弾が撃ち込まれ、上陸支援艇からの近距離援護射撃の下、第1海兵師団第1、第5、第7海兵連隊約12,000名が上陸を開始しました。

 日本軍が設置していた障害物や機雷は除去されえおり、散発的な砲火はあったものの上陸部隊は順調に海岸に近づけました。しかし、海岸線から150メートル付近で日本軍の一斉砲撃が開始され、上陸第1波の部隊は煙幕をたいて退却しました。

 第1波上陸から1時間後、第2波が殺到しましたが、上陸初日に米具は上陸用舟艇60隻以上、戦車、水陸両用車多数、戦死210名、戦傷901名を出しました。

 日本軍守備隊はゲリラ戦法により組織的抵抗を行い、上陸した米軍に大損害を与えました。苦戦させられた第1海兵師団は1030日には損失60%を超え、事実上、部隊は壊滅しました。地上戦闘の場合、30%の犠牲が部隊行動(組織的行動)の限界とされ、60%超の犠牲はいかに大きなものか、勇猛果敢な海兵隊にいかに大きなショックを与えたかわかります。

 第1海兵師団は戦死者だけでなく、戦傷者、余りの恐怖に発狂する兵士も多く出たそうです。

 「23日で終わる」と公言していた第1海兵師団長のリュパータス少将は解任されました。

 硫黄島の戦いは、米海兵隊にとって誇りではありますが、ペリリュー島は米海兵隊にとって〝汚点〟となりました。

 さらに、米海兵隊のペリリュー攻略と同時に、フィリピン攻略の中継地点とされたモロタイ島が攻略され、レイテ沖海戦が行われ日米戦の拠点はフィリピンに移っていました。ペリリュー島の戦略的価値はゼロになっていたのです。

 攻略部隊は第1海兵師団から米陸軍第81歩兵師団へと交代。補給が途絶した日本軍と違い、第81師団は膨大な物量で日本軍守備隊を圧倒しました。

 日本軍守備隊を指揮したのは、中川州男大佐で陸士30期、大正71918)年歩兵少尉任官、盧溝橋事件が初の実戦となり、中国戦線で野戦指揮官としての功績が認められ、連隊長から陸大推薦を受け昭和141939)年陸大専科を卒業し歩兵中佐に昇進しました。

 中川大佐は一度は宇垣軍縮の影響から配属将校となりキャリアが絶たれましたが、日中開戦でその能力が開花。40歳を過ぎて陸大に進み、エリートとは違った叩き上げの軍人でした。合理的精神の持ち主で、ペリリュー島を要塞化・地下陣地化し兵の玉砕を戒め米軍に可能な限りの出血を強いる戦術を取りました。

 天皇皇后両陛下が慰霊に訪問されましたが、陛下の訪問は歴史に埋もれた「真実」を掘り起こすものであり、私たちはこの埋もれた真実に目を向けるべき時ではないでしょうか。

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