元自衛官の憂い The third
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12011247 | エルトゥールル号遭難事件 |
日本とトルコ(日土)の外交で必ず出てくるのが、最近では「エルトゥールル号遭難事件」です。
冷や水を浴びせるようで申し訳ありませんが、エルトゥールル号遭難事件が注目されるようになったのは、平成14(2002)年FIFAワールドカップでトルコ代表が活躍し、メディアが日土関係の発端として知らしめるようになってからです。ある調査によると、トルコの民間会社による調査では、トルコ国民の認知度は約30%程度で、日土経済協力で行われた第2ボスポラス大橋、マルマライ(ボスポラス海峡海底トンネル)計画よりも認知度は低かったと伝えられています。
エルトゥールル号遭難事件は、明治20(1887)年に行われた小松宮負債のイスタンブール訪問に対する答礼を目的に、オスマントルコ海軍の航海訓練を兼ねて日本に派遣が決まりました。
1889年7月14日、イスタンブル(イスタンブール)を出港。様々な困難を克服しながら、1890年6月7日にエルトゥールルは日本(横浜)に到着します。
エルトゥールルの司令官オスマン・パシャを特使として6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈しました。オスマントルコ最初の親善訪日団として歓迎を受けました。
エルトゥールルは訓練不足、資金不足などで限界に達しており、多くの乗員がコレラに罹患しており、9月になり出港できる目途がついたものの、遠洋航海には耐えられないのは明らかでした。
日本政府は台風シーズンであったため出港の延期を申し出ますが、オスマントルコは日本側の申し出を振り切り出港しました。
オスマントルコはムスリム(イスラム教徒)の盟主であり、オスマントルコの国力を誇示するために強行されたものと見られます。日本に留まる時間が伸びれば、オスマントルコ海軍の弱体化が広まり、それを皇帝アブデュルハミルト2世の意志が働いていたものと思われます。
9月16日21時頃、接近する台風の強風で紀伊大島の樫野崎の岩礁で座礁。機関部に浸水し水蒸気爆発を起こし沈没しました。
樫野崎灯台下に流れ着いた生存者のうち、十数名が断崖を這い上り灯台にたどり着きました。灯台守は応急手当てを行いますが、言葉が通じず国際信号機を使用して遭難したのがオスマントルコ海軍軍艦であることを知ったそうです。
通報を受けた大島村(現:串本町)の住民は、総出で救助と生存者を収容しました。当時、村では食料も少なかったにもかかわらず、村にあった食料で遭難者を介抱しました。
救出されたのは69名。死亡・行方不明は587名という大惨事となりました。
遭難の翌朝には、樫野区長から大島村長に伝えられ、付近を航行していた船舶を大島港に寄港させ、生存者2名が連絡の為に神戸港に向かいました。神戸港に寄港していたドイツ海軍砲艦が大島に向かい、生存者は神戸に搬送され病院に収容されました。大島村長は県を通じて帝国政府に伝えられ、知らせを受けた明治天皇は政府に可能な限りの援助を指示。日本の各新聞社は衝撃的なニュースとして伝えられ、義援金や弔慰金が集められました。
事件から20日後には帝国海軍の「比叡」「金剛」が品川からトルコに向け生存者を送還します。
串本町では5年に一度追悼式典が行われており、平成20(2008
年には訪日していたアブドゥラー・ギュル大統領が大統領として初めて串本町を訪れ追悼式に出席しました。
後に先述したFIFAワールドカップでトルコ代表が活躍し、日本のメディアが同事件を伝えるようになり、イラン・イラク戦争で邦人救出に活躍したトルコ航空機を絡めて喧伝されるようになりました。
日本政府の間抜けぶりが発揮されました。イラン・イラク戦争でトルコ航空の当時の乗務員に対し感謝が伝えられたのが21年後の平成18(2006)年になってからです。
考えたくもないですが、2002年にエルトゥールル遭難とトルコ航空機の邦人救出が話題になりましたが、当時の首相は小泉純一郎で、感謝が伝えられた時の首相も小泉純一郎でした。
小泉純一郎は外交関係を利用した証拠はありませんが、4年もの間を取る必要性などどこにも無く、小泉純一郎は政争に利用したと見るのが当然のことです。
日本国は自分の国のことですが、情けない国です。
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