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元自衛官の憂い The third

軍事的色眼鏡で見る世界 軍人は究極の合理主義者です。 合理主義者であるが上に、「人道」を忘れたり、犠牲にしたりすることがあります。 軍人は行動は計画的、本心を隠す、混雑する場所を避ける、計画的な金銭感覚、意志が固い、職場での信頼を得やすい、そして最後に家庭では扱いがぞんざいにされるです。 家庭ではぞんざいに扱われながらも、軍事的色眼鏡で見てしまう元自衛官の雑感などを書いていきます。
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  • :09/06/14:01

02271031 不思議の国

NHKで『精霊の守り人』を放送していますが、どうもドキュメンタリー系を好む私にはなかなか集中して見ることができません。

北鮮による金正男氏暗殺事件ですが、北鮮の金王朝を語るとき、粛清は切り離せないものです。権力を手に入れると、権力者はその権力の座を守るために一族であろうと情け容赦なく様々な弾圧を加えてきました。北鮮の成り立ちについて、お話したいと思います。


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昭和201945)年2月、ヤルタ会談で米英ソ首脳はソ連対日参戦に関しヤルタ協定(密約)を交わし、その中で戦後の朝鮮半島を当分の間連合国(米英ソ中)4ヶ国による信託統治下に置かれると決められました。同年89日、ヤルタ協定に基づきソ連は対日参戦を行い満州国と朝鮮に侵攻します。814日、日本政府はポツダム宣言を受諾、ソ連軍は92日に日本が降伏文書に署名するまで続けられます。ソ連軍は満州、南樺太、千島列島、朝鮮半島38度線以北を占領しました。

これには、米ソ間で取り決めが交わされていました。813日、駐ソ大使らがソ連が朝鮮半島を手中に収めようとする野望を持っているとトルーマン米大統領に伝え、ソ連軍に対抗しアメリカ軍を満州・朝鮮半島地域に展開を求めましたが、アメリカ軍はフィリピン方面に主力が展開しており非現実的なもので黙殺されてしまいました。

しかし、うやむやのうちに朝鮮半島をソ連軍に占領されるのを防ぐために、「北緯38度線で米ソ分割占領」をアメリカ政府が提案し、これをトルーマン大統領が承認し、816日にソ連から同意の変更を受けました。これが、朝鮮半島分断の始まりです。

815日、玉音放送で日本の降伏が伝えらましたが、朝鮮半島統治していた「朝鮮総督府」は事前に治安維持を目的に朝鮮人への行政権移譲を模索しており、朝鮮独立運動家であった呂運亨(りょうんきょう/ヨ・ウニョン)と接触していました。呂氏は独立運動家でしたが、李承晩のような極端な反日主義者ではなく現実的・建設的な日朝関係を模索していた独立運動家でした。

玉音放送を聞いた呂氏は安在鴻(あんざいこう/アン・ジェホン)と朝鮮建国準備委員会を結成しました。朝鮮初の組織的な独立準備でした。92日、日本政府が降伏文書に調印すると(正式な日本の降伏)、呂氏は李承晩を大統領、自身を副大統領とする朝鮮人民共和国の建国を96日に宣言します。

しかし、朝鮮建国準備委員会の方針を巡り、右派(民族主義者)と左派(共産主義者)が対立、さらに当時中国で活動していた大韓民国臨時政府関係者は建国に協力を拒否しました。米ソはともに朝鮮人が自主的に樹立した政府を承認せず、97日に米軍司令部が軍政下に置くことを宣言し、朝鮮半島の即時独立はここに消えることになりました。99日には38度線北側でソ連軍が軍政を開始します。

38度線北側では、ソ連軍政が敷かれ以前から存在した共産主義独立運動組織を取り込み、主要な親日派や民族主義者を弾劾・粛清を始めました。ソ連軍は少数派であった金日成率いる(旧)東北抗日聯軍一派を重用し朝鮮共産党とし、朝鮮国内の甲山派、南労党派や中国派を朝鮮共産党に強制的に吸収していきます。

19461月から米ソが朝鮮半島での信託統治を巡って共同委員会を開きました。そうした中、38度線北側(北朝鮮)では28日に北朝鮮臨時委員会が設立され、1947220日には正式な行政機関として北朝鮮人民委員会に再編されます。

米ソ共同委員会は決裂し、北朝鮮人民委員会は11月に、憲法制定委員会を立ち上げ北朝鮮独自の憲法制定に動き出しました。1948年になり38度線南部が単独で総選挙を行う動きを察知した北朝鮮人民委員会は南朝鮮労働党を通じて選挙妨害活動を始めましたが、510日に南朝鮮で単独総選挙が行われ、人民委員会は北朝鮮政府樹立を急ぎました。825日最高人民委員会を設立し、93日には朝鮮民主主義人民共和国憲法が公式採択され、99日に初代内閣首相に人民委員会委員長金日成が就きました。

「金日成」という名は、朝鮮半島では知れ渡った名でした。金日成は日本合邦時代に満洲やソ連国境地帯で、抗日ゲリラの指導者として知られており伝説の〝将軍〟だったのです。

伝説の将軍は、たった一人で100人の日本軍を破り、その2時間後には50km以上離れた場所の日本軍を奇襲したといった話が朝鮮半島に広まっていました。噂話で広まっていたもので、誰も顔を知りませんでした。金日成の名は、海外で独立運動を行っていた李承晩や金九の名よりも前から知れ渡っていました。

金日成が初めて北朝鮮の指導者として住民の前に姿を現したのは、19451014日のことでした。平壌の運動場でソ連占領軍司令部政治委員が「最も偉大な抗日闘士」と金日成を紹介しました。

30歳そこそこの偉大なる将軍が、李承晩や金九より若いことはあり得ないことでした。北朝鮮は国家樹立当初から『精霊の守り人』のようなファンタジーの国としてスタートを切ったのです。偽りの国家は、その国の安定を維持するために「死」は付き物です。ファンタジーの世界のように・・・。

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