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元自衛官の憂い The third

軍事的色眼鏡で見る世界 軍人は究極の合理主義者です。 合理主義者であるが上に、「人道」を忘れたり、犠牲にしたりすることがあります。 軍人は行動は計画的、本心を隠す、混雑する場所を避ける、計画的な金銭感覚、意志が固い、職場での信頼を得やすい、そして最後に家庭では扱いがぞんざいにされるです。 家庭ではぞんざいに扱われながらも、軍事的色眼鏡で見てしまう元自衛官の雑感などを書いていきます。
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  • :07/28/19:08

12291001 洪思翊(こうしよく・ホンサイク)陸軍中将

朝鮮人として生まれ、日本陸軍中将として処刑された朝鮮人が居たことをお話します。


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1889年に生まれ、大韓帝国陸軍武官学校入学、1909年に武官学校廃止により、日本の中央幼年学校に国費留学し首席で卒業しました。陸軍士官学校に進みますが、韓国併合を受けて抗日独立運動に身を投じた級友がいましたが、洪中将は決起に反対で、実力をつけてから決起すべきと陸士に留まりました。

1914年陸士卒(26期、卒業時の成績は742人中31番)、歩兵少尉に任官、第1師団第1連隊に配属。1923年陸大卒(35期)。1925年陸軍参謀本部勤務。1929年陸軍少佐。1931年陸軍歩兵学校教官。1933年関東軍司令部勤務、満州国軍顧問。奉天軍官学校(陸士相当)の指導に当たり、軍官学校で朝鮮人移民を受け入れるように尽力しました。1934年歩兵中佐。1936年まで関東軍司令部参謀部勤務。

1936年歩兵学校教官。日中戦争勃発で中支派遣軍司令部勤務。1938年特務部員として上海勤務。歩兵大佐昇進。上海では情報収集、政治工作に従事しました。

1940年留守第1師団司令部配属。1941年少将昇進。中国河北省第108旅団長兵站監。

19943月フィリピン捕虜収容所長として赴任。同年10月中将昇進。同年12月に第14方面軍兵站監となり終戦を迎えた。

連合軍は洪中将が収容所長であった時期に、食糧不足から捕虜に充分に給養しなかったとして戦犯として訴追されました。

洪中将は法廷で一切の弁解をせず。他の戦犯たちを積極的に証言したため、洪中将の記録はほとんど残されていません。

お決まりのように、韓国独立後は「親日派」として糾弾の対象となり、長男は早稲田大学を卒業後、朝鮮銀行に勤務していましたが、当時の李承晩による直接命令で辞職させられ、未亡人は東京高等師範学校(現:お茶の水女子大学)を卒業していましたが、帰国後は一切の職に就けなくなりました。

日本の歴史から抹消されていますが、こうした「朝鮮人」が居たことを、私たちは知らなければなりません。

韓国に住む人たちは、反日という名目で日本人だけでなく自国民に対しても残虐行為を平然と続けてきたのです。そんな国を、私たちは手放しで受け入れていいのでしょうか?

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