元自衛官の憂い The third
![]() (08/07)
(08/01)
(07/29)
(07/20)
(07/12) |
|
07261717 | [PR] |
05051008 | 憲法改正とラーメン |
安倍首相の目玉政策である「憲法改正」ですが、筆者は憲法改正には前向きですが、安倍首相の言う「自衛隊憲法明記」については反対です。
ラーメンが中華料理なのか? 歴史を顧みれば、中国の麺料理から日本人が発展させたものであることは明白な事実です。それを無視し、中華料理としてしまうのは無謀としか形容できません。自衛隊が軍隊なのか否か。主権国家としてあるべき存在の軍隊を持たないと主張する愚かさ。似て非なるものだと主張する愚かさ。それらを改めず、曖昧なままで憲法に明記するという愚かさ。また、それを歓迎する自衛隊高級幹部。
「自由、平等、博愛」がフランス革命のスローガンであり、フランスが目指すべきフランス社会を追求するものと今でも標語として存在しています。正確に訳せば、「自由、平等、友愛」となるのだそうです。
自由とは、「人間と市民の権利の宣言(1789年8月26日フランス憲法制定会議採択)」では、『自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行うことができるというこである。よって、各人の自然権の行使には、それが社会の他の人々が同じ諸権利を享受することを保証するもの以外には限界がない。こうした限界は法によってのみ決定される』。日本は天明(徳川家治、家斉が将軍職にあった時代)です。歴史で覚えさせられたのは、「天明の大飢饉」「浅間山大噴火」「金印の発見」などなど。そんな中で、フランスではすでに民主国家を作る努力が続けられていたのです。
参考までに、1793年に出された「人間と市民の権利の宣言」では、『自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行う属人的な権利である。それは自然を原則とし、正義を規則とし、法を防壁とする。その倫理的な限界は格言にあ通りであるー己の欲せざる所は人に施すなかれ』。自由の倫理的限界は、「自分がされたくないと思うことは、他人にとっても同じだから、他人にすべきではない」と誰でも理解できるようにわかりやすく伝えていることに驚かされます。日本ではチョンマゲの時代です。
平等とは、前出の人間の市民の権利の宣言の中では、『全ての人間は生まれながらにして平等であり、法の下で平等である』。説明はいりません。さらに、1795年の人間と市民の権利と義務の宣言では、『平等とは、保護を与えるにせよ、罰を与えるにせよ、法は全ての人間に対して同一であるということである。生まれによるどのような差別も、また権力のどのような世襲も許されない』。
なぜ、長々とフランスを褒め称えるのかといいますと、日本国憲法に自由と平等はあっても、「友愛」が存在していないからなのです。
フランスで友愛を、『自由と平等が権利として受け取られうる一方で、友愛は各々が他者に対して負う義務である。よって、これは倫理的なスローガンなのである』(ポール・ちぼー)と説明されています。他者に対する親愛の念というだけでなく、社会・共同体に対する義務・奉仕を意味するものなのです。
日本国憲法は自由と平等は取り入れられているが、友愛(博愛)は全く採り入れられていない。日本(人)では、言葉としての博愛(友愛)は言葉としても使いません。フランスの人々から言うならば、他者を愛する(他者を思いやる)ということを身に付けないと、自由と平等は与えられないと解釈できます。
もっと言えば、自由と平等は自己主張であって、友愛(博愛)は他者(社会や共同体)に対する自己犠牲です。友愛(博愛)を欠いては人は集団生活を営み得ない。自分の感情を抑えなければ、他人の感情はわからない。現代の空気は意見を右左に分けたがり、他者の意見を攻撃するだけで理解さえしようとしていません。
日本国憲法前文にこうあります。『そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反するいっさいの憲法、法令及び詔勅を排除する』
これは、かつての戦争で「天皇陛下のために命を捧げる」といった風潮に対する戒めなのでしょうが、昭和から平成を見れば、皇室が国民に寄り添い続けようされてきたのは明白な事実です。平成になり、国民に多くの天災が襲いましたが、私たちはそこで皇室のあるべき姿を模索され続けてきた天皇皇后両陛下、皇太子殿下ご夫妻をはじめ皇室のみなさまのお姿を目に焼き付けたはずです。明治から大正と日本は戦争を経験し、第一次世界大戦では全く被害を被ることなく、「戦争は儲かる」との誤解が広まり、それを昭和に入りまた儲けを目論見戦争を進めた政治・軍事に関わった人たちが悪用しただけという事実を無視し、天皇という存在に戦争責任の一端を負わせる愚かな作文です。天皇と国民の関係は昭和から平成と何ら問題なく来たのが証拠です。口幅ったい言い方ですが、それなのに安倍首相は男系天皇を望み、年齢的に身を退きたいと口にされた天皇陛下の譲位を認めようとしなかった。安倍首相の頭の中身こそ入れ替えるべきで、拙速な憲法改正は問題であり、その改正を安倍晋三が手がけることが問題だと筆者は考えています。
日本(人)は憲法を金科玉条のごとく守ることだけを目指し、友愛が欠け主張ばかりで犠牲のない社会が正当であると曲解した社会を作り上げてしまいました。それがまるで永遠普遍の真理であるかのごとく、永遠の理想を打ち立てられると称えているのです。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全をと生存を保持しようと決意した」“日本に生まれてきたから、おまえは恒久平和を願い、世界中の人々から善人だからと思われているのであるから世界中の人々はみんな好い人だと思わなければならない。その世界中の好(よ)き人々に、日本人の安全と生存を保持していこうと決めたなんて詐欺師の主張です。日本人に善きサマリア人になれと訴えているのです。
宗教の教えです。現実的な国(民)のあるべき姿を教えるものではありません。
筆者は時代遅れの憲法に固執する必要は当然ないと考えています。だからといって、軽々に憲法改正を口にする気はありません。欠格な憲法で教育を受けたままでは、当然、その憲法が欠格だなどとわかるはずはなく、教育から全てを変えていく。そして機が熟したら、憲法を改正するくらいのことをしないと、私たち日本国民の目が覚めることはないでしょう。
- +TRACKBACK URL+