元自衛官の憂い The third
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08171200 | 名前 |
すべての事象には「名」が付けられます。名前が無いものはその存在を認識できないからです。
ヒトはまず対象に名前を付けます。それは対象の概念を明確にし、それ以外の事象との区別をしなければならないためです。
例えば、「犬」にイヌという名前は付けません。イヌという名前を付けても、もともと「犬」なのですから対象が抽象的になってしまうからです。
商品の名前では、関連があるとイメージが結び付けやすくなるための名前が付けられます。
8月15日は敗戦の日です。
個人的には日本は米国のワナにはまり戦争を選んだだけでなく、外交的な失点からまんまと米国内にプロパガンダを展開させ、日米開戦から3年8ヶ月後には人類史上初の核兵器を使わせることまで許してしまいました。
そして昭和20年8月15日を迎えました。日本では8月15日を終戦の日としていますが、終戦ではなく「敗戦」です。もっと厳密に言えば、「戦争が終わった日」ではありません。あくまでも8月15日は日本の国内的な「敗戦」でしかないのです。国際法では「休戦」が成立した日と言うべきものでしかありません。
保守派から「大東亜戦争」と、かつての戦争を呼称するような話が出て来ます。現在、使われている「太平洋戦争」は占領軍が押し付けたもので、「大東亜戦争」が日本が意図したかつての戦争を体現しているというのがその主張です。
確かに、名前はイメージに繋がるものですから大切なことのように思えます。しかし、歴史上ではどうでもいいことなのです。そして、革新系の人まで「大東亜戦争」に固執すべきだとの主張があるのです。それだけ、どうでもいいことだと思っていいことなのです。
軍民・国家を問わず数多の戦争犠牲者に(合掌)
敗戦の日である8月15日なので、「大東亜戦争」という言葉について考えてみます。
「大東亜戦争」という言葉が生まれたのは、昭和16年12月10日に行われた大本営政府連絡会議でのことです。対米英と開戦し、その名称をどうするかの会議です。
海軍案として「太平洋戦争」「対米英戦争」「興亜戦争」などが出されましたが、陸軍の案であった「大東亜戦争」が採用されました。そして、「大東亜戦争」が日中戦争と対米英戦争を含めたものであると閣議決定が12月12日に行われました。
ここで重要なことは、「大東亜戦争」は何ら意味のない戦争の名称ということです。
保守派は「大東亜戦争」という言葉を使い、日本はアジアの解放者だった、あの戦争は自衛戦争だったと結論付けたいのでしょうが、成立からわかるのは日本人は「解放者」でもなければ、この時点では「自衛戦争」でもなかったのです。ただの名称でした。
保守派は大東亜共栄圏、八紘一宇などから「解放者」「自衛戦争」と言いたいのでしょうが、歴史的事実からわかることは単なる後付けでしかないということです。
「大東亜共栄圏」は、アジアの欧米列強植民地をその支配から解放し独立させ、大日本帝国・満州国・中華民国を中心にした国家連合を形成するというものでした。
確かに夢も希望もある「大東亜共栄圏」です。しかし、その実態はフィリピン第二共和国、ラオス王国、ビルマ国、満州国の各政府、日本が認める中華民国政権汪兆銘のいずれも日本政府/日本軍の傀儡政権もしくは従属した政権でした。実質的に支配者が替わっただけのことだったのです。
日本は日本語教育を行い、宮城遥拝、神社造営など求めたのが動かぬ証拠です。
昭和18年5月31日の御前会議で「大東亜政略指導大綱」の中に、大東亜共栄圏とは「重要資源の供給源」と明確に謳っており、この内容は非公表とされました。
このように、大東亜戦争はいわば支配者交代を目論んだ日本政府/日本軍の隠れ蓑だったのです。それを、今さら元に戻そうでは、また支配者にでもなるつもりかと言われて当然です。
悲しいことに、革新系からも「大東亜戦争」と呼称するよう求める声がかつて上がっていました。なぜ、こうも熱くなるのか理解できません。深く学ばず、信長や秀吉や家康が何をしたか学ぶことが重要だというのが日本の伝統です。単なる「名前」の本質を論じ合うことほど無駄なことではないでしょうか。
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