元自衛官の憂い The third
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06241202 | 沖縄慰霊の日 |
わからないことだらけです。
6月23日は「慰霊の日」として沖縄県が制定しており、安倍首相も式典に参加しているのですが・・・6月23日が「大規模な戦闘の終結」としているようですが、昭和20(1945)年6月23日午前4時頃、第32軍司令官牛島満中将と長勇参謀長が自決したとされている日であること以外、6月23日が「慰霊の日」にされているされている理由が見当たりません。
大本営の沖縄戦終結宣言が出されたのは6月25日、アメリカ軍が日本軍が組織的抵抗ができなくなったと判断し終結を宣言したのは7月2日です。
戦史、戦術等の視点で見れば、沖縄戦は第二次世界大戦の中でも特筆される激戦であったのは事実です。あまり知られていませんが、アメリカ陸軍・海兵隊では沖縄戦の激戦を語り継いでいます。
ニュースを見ていて、「20万人」の犠牲という言葉が引っ掛かりました。その数は激戦を物語るものですが、非戦闘員である沖縄県民が「20万」という犠牲を出したというのは悲劇で形容できる数字ではありません。
県営平和記念公園にHPを見ると、基本理念に「去る沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し・・・」とありました。ニュースの〝20万人の犠牲〟という文字が霞んできます。
《解説》(5)で、〝「平和の礎」には、沖縄戦で亡くなられた一人一人のお名前が刻まれております。ただし、沖縄県出身者については、昭和6(1931)年の満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外で戦争が原因で亡くなられた方々が刻銘されておりす〟とあり、平成27年度の刻銘者数で、
沖縄県:149,329名
県外:77,380名(日本小計226,709名)
米国:14,009名
英国:82名
台湾:34名
北朝鮮:82名
韓国:365名(小計14,572名)
合計241,281名となっていました。
「20万人の犠牲」をウソとは申し上げられませんが、沖縄戦で亡くなられた日本人犠牲者は188,136名人とされています。県外出身日本兵65,908名、沖縄出身軍人・軍属28,228名、戦闘参加者55,246名、一般住民38,754名(推定)(1950年沖縄県援護課発表)。
軍人・軍属の数が正確に出されているのは、戦傷病者戦没者遺族等援護法により恩給の支給対象となるためです。私が何を言いたいのかは忖度していだけると助かります。
沖縄戦を本土決戦の時間稼ぎの「捨て石」だったと語られるようになりましたが、これは誤解が大きいと私は考えています。
記録等を調べると、日本政府(東條内閣)が沖縄戦が起きると判断したのは、昭和19(1944)年6月のサイパンの戦いが始まった直後です。同年7月1日、後に32軍参謀長となる長勇少将が、沖縄に派遣されています。
東條内閣は緊急閣議を開き、沖縄県の老幼婦女子の緊急疎開が決められたのが7月7日、サイパン守備隊が玉砕を命じた2日後のことでした。
これを以って、沖縄戦は「捨て石作戦」ではないとは言い切れませんが、日本政府は沖縄県を見捨てていたわけではないことだけはご理解いただけると思います。日本政府の方針に、現地軍も戦闘となった場合、住民が軍の行動を阻害する恐れがあると疎開を希望していました。
日本政府は疎開の目標を本土8万人、台湾2万人と互恵10万人の疎開させるとしました。当時、沖縄県内には15歳未満、60歳以上、その看護者を含め29万人という数字も出されています。10万という数は半数を満たさないものでしたが、疎開は確かに計画されていたのです。
大本営でも沖縄戦の準備がほぼ同時に始まりました。昭和19年7月第9師団(沖縄本島)、7月末第28師団(宮古島)、8月第24・62師団を増派。砲兵部隊を統括する第5砲兵司令部創設。沖縄方面には4個師団、混成旅団5個が配置されたのです。
しかし、昭和19年10月にアメリカ陸軍がフィリピン・レイテ島に上陸し、レイテ戦前に起きた台湾沖航空戦で日本海軍が戦果を過大に出し、フィリピンでの決戦を模索し始めます。沖縄・姫路・朝鮮・満州・台湾から各1個師団を抽出しレイテ投入をを決意します。
ここで帝国陸軍の官僚主義的発想が発揮されます。大局ではなく、自らの存在を価値あるものにすべく注力するという方針で沖縄から1個師団(第9師団)が台湾に移動となり、迫撃砲大隊2個がフィリピンへの移動が決まりました。第32軍は兵力の3分の1近くを失うことになったのです。
第32軍は急ぎ作戦を持久戦へと転換します。これが、推測ですが「捨て石にされた」と第32軍から出た言葉が、やがては沖縄戦全体を意味しているように解釈されたのではないでしょうか。いきさつは詳述は省略します。
この作戦の転換で、沖縄県内の根こそぎ動員となり、非戦闘員まで動員されてしまうことになったのです。歴史は第三者として見つめ直さないと、真実は隠されてしまいます。戦闘は確かに過酷でしたし、戦後の米軍の沖縄の人たちに対する行為等は許されざるものもありました。
しかし、一方的な主張だけでは、我々が理解しようとしても一方的であるが故に顧みることすらしなくなってしまいます。そうしたすき間に、様々な憶測等が混じり合いデマ等が独り歩きを始めます。
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