元自衛官の憂い The third
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10170953 | ブルーインパルスが生んだ奇跡 |
航空自衛隊(空自)曲技飛行隊(アクロチーム)「ブルーインパルス」は、1958(昭和33)年に曲技飛行を公開して以来、スモークを用いてアクロ飛行するので有名になりました。
創設当初の機体塗装は、編隊長機のみの塗装や、各機への塗装が施されていましたが、金色が使われていたりセンスのかけらどころか悪趣味なものでした。
白を基調にした青いラインの塗装が施されるようになったのは、東宝映画の撮影協力の縁で、東宝のデザイナーによってデザインされたものです。
ブルーインパルスを世界的に有名にしたのは、東京オリンピックで空中に五輪マークを描いたことからです。
五輪マークが描かれたことは今でも話題になりますが、裏話をすればまったくの手探りから準備が始められました。
当初、オリンピック委員会事務局から開催前年の昭和38(1963)年1月に、「開会式の会場上空を、編隊でスモークを引いて飛んでくれないか」という打診がなされました。
これを受け、当時の第4代航空幕僚長松田武空将(陸士39期、陸軍中佐)の「どうせやるなら、五輪マークを描いて見せようじゃないか」の一声でスタートします。
オリンピック委員会事務局から、「1962年10月10日15時10分20秒ちょうどに五輪を描き始める。位置はロイヤルボックス正面で、五輪のマークが見えるようにして欲しい」と正式な要請が出されました。
この要請の裏にはまだ裏がありますが、それは別の機会に譲りたいと思います。
当時のブルーインパルスは第1航空団第2飛行隊の教官によって組織された「特別飛行研究班」というのが正式名称でした。(発足時は「空中機動研究班」でした(昭和35年8月1日に改称しています)。
正式な要請で研究班は実施高度、輪の大きさ、視覚、太陽の位置、カラースモークの準備、展開基地、離陸時間、待機地点、搭載燃料など様々な検討がなされました。
そして、決まったのはロイヤルボックスから角度70度の延長線上、高度約3,000m、直径1,800mの輪を2G の右旋回で描くことが決められました。
しかし、これはあくまでも地上で計画されたものです。これを空中、三次元の空間に描くのですから並大抵のものではありません。
現代ではレーダー技術の発達で互いに位置を把握し、当時よりも容易に五輪を描くことは可能ですが、当時はパイロットの目視により確認されて行われていたことですから容易なことではありません。
さらに、空中で円を描くのは機を旋回させるわけですが、旋回すれば重力の影響で速度が落ちてしまい、重力を維持したままでは旋回半径が小さくなってしまいます。輪にならず蚊取り線香のようになってしまうのです。
五輪マーク、すなわち5機が2列になり、正しい間隔で並び、一斉に旋回して輪を描かなければならないのです。
カラースモークは胴体タンクに入れたスピンドル油にそれぞれの色の顔料を入れ、操縦桿にあるトリガー(機銃やミサイルを発射する引き金)を引くと潤滑油が排気口のところで放出され不完全燃焼でスモークになりますが、黒のカラースモークがなかなかできなかったそうです。
地上テストで黒であっても、高度が上がると褐色になってしまい、黒が出せたのは開会式10日前のことでした。
10月9日静岡県浜松基地より埼玉県入間基地に移動。当夜は豪雨だったそうです。
一部では、10日は雨だと深酒してしまい二日酔いで10日に五輪マークを描いたとの記録等がありますが、世界中でも前例のないミッションを前に、ミッション実施が雨でできないと諦めて深酒するようなことは元自衛官として想像できません。
五輪マークはそれまで「これでよし」というマークを一度も描くことができず本番を迎えました。
10月10日14時30分入間基地離陸。待機地点は横浜上空。国立競技場の前進待機所からは、進行が遅れていることが伝えられ、「そっちに任せた」と編隊長に伝えられたそうです。
編隊長は開会式のラジオ中継を受信し、編隊長の判断で待機地点を出発。絶妙のタイミングで編隊長は「ブルー・スタート・ターン・スモーク・ナウ」と指示が出されました。
時間にして30秒ほど。本番まで一回の成功もしなかった五輪マークが東京の空に描かれた瞬間でした。
何が成功に導いたのかは、誰も明確に答えを出せないでしょう。
しかし、たゆまぬ努力に天が味方したというのが後世の私たちが出せる精一杯の回答ではないでしょうか。
どれほど五輪マークを描くことが難しいものであったか、それを推し量ることができるエピソードを最後にご紹介します。
見事な出来栄えに、オリンピック委員会事務局から閉会式でも五輪マークを描いて欲しいとの要望が出されましたが、部隊は「二度とできない」と丁重にお断りしたそうです。
そして、東京オリンピックの次の開催地であるメキシコ空軍から空自浜松基地に数名が派遣され、指導を求められたそうですが、全てを説明したところ「メキシコ空軍ではできない」とカラースモークだけを持って帰国したそうです。
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